「日序上人が応泊師時代の想い出」 

 

 私は12人兄弟姉妹の七女として生まれ、関東大震災(大正12年)のころ両親がご信心を始めました。

 

 親会場が八王子市本町にあったころ、朝参詣に行くのに月があるうちに家を出て、野猿峠から兄弟姉妹みんなで下駄をはき、カランコロン音を立てながら片道一時間半かけて「寒い寒い」と歩いて一生懸命お参詣しました。

 

 昭和22年11月に親会場に応泊師(日序上人)が赴任され、翌23年1月に清流寺となり昭和26年に今の子安町に移転しました。

 

 小学校を卒業した13-14歳のころ、1m8センチの小さい体だった私は父の杖替わりで御奉公に一緒についてまわりました。

 

 応泊師が南武線に乗って稲城長沼駅のご信者宅へお助行に行かれる時にご一緒させていただきました。イイヌマ トリさんは鳥を飼っていて、応泊師は「トリさんだから鳥小屋にいるんだよ。」と子供だった私に面白おかしく歩きながら話してくださいました。

 

 応泊師が南大沢の佐藤さんのお宅に歩いてお助行に行かれる時は、野猿峠の我が家で一服してから山を越えて父と一緒に向かわれました。戦後すぐでしたので、応泊師は脚きゃ絆はん(ゲートル)をまかれた兵隊さんのような恰好をされていたのを憶えています。

 

 16-17歳のころ、その時私は小さくてわからなかったけれども、今思えば応泊師のご紹介だったのでしょう、父に言われて新橋にある美容院(大越さん)に住み込みで働きに行きました。

 

 そこは美容院と床屋があり、一階には和菓子とココアのお店もあり、角帽に詰襟の学生服を来た大学生の堯信師がココアを飲みにいらっしゃっていて、私に声をかけてくださいました。

 

 大越さんは乗泉寺の強信者さんで私も乗泉寺へお参りに行きました。

 

 応泊師にご縁をいただいたおかげで乗泉寺にお参りに行けるという貴重な10代を送ることができ、今思い出してもありがたいと感謝の気持ちでいっぱいです。